聖徳太子
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聖徳太子の生涯

謎に包まれた聖徳太子。後世にこれだけ名前を残した彼の人生とはどんなものだったのでしょうか。また、こうして語り継がれている聖徳太子像とは本当のものなのでしょうか。語り継がれている生涯について触れていきましょう。

誕生にまつわる事柄・伝説

西暦574年、太子は用明天皇の第二子として、この世に生を受けました。厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていましたが、幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)といいます。誕生にまつわる伝説はありますが、太子が生まれた近辺に「厩戸」という地名があり、そこから名付けられたとも言われています。

誕生にまつわる伝説

西暦571年、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女の前に、全身が金色に輝く僧が現れて、「我に救世の願あり。しばらく皇女の腹に宿る」と言いました。その僧は、「西方の救世観音菩薩」と名乗り、皇女がそれに同意すると、皇女の口から体内へと入っていきました。皇女が身ごもり、8ヶ月のときにはお腹の中から声を出し、用明天皇はとても驚きました。その後、臨月を過ぎても生まれる兆候は全くなく、金色の僧が現れてから1年後の1月1日、宮中を見回り中の皇女が厩戸の前まできたところ、陣痛もないまま、突然子を産み落としました。皇女は痛みがなかったので、自分が子を産み落としたことに気づかなかったほどです。赤子は小さな小豆ほどの大きさの仏舎利(仏陀の骨)を握りしめていました。厩戸の前で生まれたことから、「厩戸の皇子」と名付けられたのです。

聖徳太子豊聡耳伝説

厩戸皇子が人々の願い出を聞く機会がありました。皆、自分が先に聞いて欲しいと、一斉に10人もの人々が口を開いたのです。皇子は、この10人の発言を一語一句漏らさずに聞き入れて理解し、的をはずさない、確かな答えを返したと言われています。この聡明さから、「豊聡耳」と呼ばれるようになったとされています。では、実際そうだったのでしょうか。実際のところは、順番に10人の人が発言し、全員の話を聞いた後に、それぞれに的確な助けになる言葉を残したという説もあります。記憶力がズバ抜けて良かったということです。今では後者の説の方が有力となっています。その当時、馬は耳聡い(みみさとい)動物、要はかしこい動物とされていました。そこからこの呼び方はきているのでしょう。

聖徳太子の死因

数々の偉業を成し遂げたとされている聖徳太子ですが、その死因も色々な説が囁かれています。なくなった日の説が二つあり、日本書紀には推古29年2月5日とされていますが、その原因は記されていません。そもそも日本書紀とは、蘇我一族を倒して頂点に登り詰めた、藤原氏側の書いたものなので、信憑性はどうかわかりません。もう一つの説が、西遊記の三蔵法師のモデルになっているとされている、玄奘三蔵という高僧がなくなった日と同じ、推古31年2月22日とする説です。斑鳩宮でなくなり、母である間人皇后が眠っている河内磯長になる御陵へ運んだとされています。

死因の伝説

平安時代の書に「聖徳太子伝暦」というものがあります。それによると、聖徳太子は生前、「○年の春にいくから工事を急ぐように」と、自分の墓を造る工事を急がせたと言われています。運命の日の前夜、立派な家の出の正室が3人もいるのにも関わらず、町人の出の膳部妃を呼び、「あの世へ行くから一緒に行こう」と告げるのです。沐浴して身をきれいにした二人は翌朝、冷たくなって発見されるのです。高貴な出の正室がいるにも関わらず、聖徳太子と膳部妃は同じ場所で眠っているとされています。様々な説がありますが、この、自ら命を絶ったとする説が一番有力なのでしょうか。

COLUMN〜真相は闇の中〜

聖徳太子の最期については様々な説があります。実は、聖徳太子という人物自体がいなかったとする説まであるくらいですから、真相は闇の中です。その時代を生きてきた人でなければ分からないでしょう。謎の多い人物ですが、それだけロマンに溢れているということでしょうか。

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