聖徳太子
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遣隋使

遣隋使と遣唐使、頭の中でゴチャゴチャになっている人、いませんか? 聖徳太子が中国に派遣したとされる遣隋使のことを詳しく紹介しましょう。どのようなことをしに隋まで渡ったのでしょうか。

遣隋使派遣の意味

遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されていますが、歴史上遣隋使といえば、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことをいいます。日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっています。遣隋使はわかりやすく言い換えると国家使節です。

聖徳太子が隋に送った手紙

聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名です。【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激しく怒ります。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。まず、日本を「日の出る国」、中国を「日が落ちる国」と表現したことに怒りました。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったことです。聖徳太子にしてみれば、それまでの日本は新羅や百済と外交があったけれども、これからは隋と対等の関係でいきましょうという意味が込められていたようです。

隋からの返書

ここで一つの謎が浮かび上がります。聖徳太子が持たせて煬帝を怒らせてしまった手紙ですが、これには返事が書かれました。しかし、この返書を日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも言われています。結局は日本に返書は持ち帰ることができなかったということです。ここで疑問が一つ沸いてきます。隋から日本に帰る途中で奪われたとされていますが、このときの船には中国から数十人もの人が派遣されていて、彼らを守る役目の人間も相当数いたはずなのです。そんな中で手紙を奪い取られるものなのでしょうか。一説によると、怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、小野妹子が隠れて処分してしまったとも言われています。このため小野妹子は流刑になったとも言われていますし、推古が、中国から派遣されている人達の前で、妹子を罰することはできないとして、何一つ責任を取らせなかったとも言われています。実際、その翌年に、第3回遣隋使として妹子は隋に派遣されています。

小野妹子

小野妹子の年齢はよくわかっていません。推測で西暦570~590年頃の生まれではないかとされていますが、20年もの開きがあります。滋賀県の豪族の出だとされています。第2回、第3回の遣隋使として大陸へ渡っており、当時の船旅を考えると、無事に帰国できたのもとても珍しく、強運の持ち主ともいえるでしょう。実際、遣隋使の役目を果たした後、流刑になりながらも異例の大出世を果たしています。小野妹子は、聖徳太子の守り本尊でもある如意輪観音を守るよう命ぜられ、坊を建設して朝と夕、毎日仏前に花を供えました。これが池坊流のはじまりとされ、華道の祖とも言われています。実際、小野妹子が眠る塚を管理しているのは池坊なのです。小野小町も同族の人物です。

日本書紀と隋書での記述の違い

遣隋使についての最初の違いは、日本書紀では第1回目の遣隋使派遣については記述がありません。ところが中国側の隋書には、第1回派遣からの記述が残っています。それまでの日本は朝鮮と外交を行っており、この遣隋使を境にして中国との外交を中心にすることになります。第1回とされているのは事前調査だったのでしょうか。また、遣隋使となっているのは隋書の方であり、日本書紀では「唐」に派遣したとされています。もちろん遣唐使はまだ後の時代になります。2回も遣隋使として派遣された小野妹子ですが、もちろん日本書紀に記載はありますが、隋書の方には名前すら出てきません。この他にも記述の違いは数点あり、当時の日本は女帝だったのにも関わらず、隋書では、倭の国の王は男だとされていたり、記述ばかりではなく、事実の内容も合わないことがあります。



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