聖徳太子
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聖徳太子と七大寺

聖徳太子は七つの寺の建立に関わったとされていて、七大寺と呼ばれています。この七大寺には、それぞれ国宝や国の重要文化財などがたくさんあります。聖徳太子が直接建立に関わった寺、指示をして建てさせた寺などがあります。

七大寺

七大寺の詳しくは別のページでも紹介していますので、ここでは寺の名前だけを紹介していきましょう。

法隆寺

七大寺の中でも、聖徳太子が直接建立に関わったとされる寺です。正岡子規の「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という詩でも有名ですね。指定文化財としての国宝も数多くあり、建造物18点、美術工芸品も20点にものぼり、重要文化財に至っては、建造物29点、絵画14点、彫刻に至っては掲載しきれない程の点数があります。この他にも工芸品や書籍や典籍、子文書や歴史資料が数多く文化財として法隆寺におさめられています。

四天王寺

大阪にある寺で、聖徳太子が一番はじめに建てた寺と言われています。国宝、重要文化財は法隆寺ほどではありませんが、やはり数多くのものが指定されています。

広隆寺

京都の太秦にある寺です。太秦の名は、聖徳太子が広隆寺を建てるよう指示した人物、秦河勝の名前にちなんだものとされています。

橘寺

橘寺は奈良県の明日香村にあり、聖徳太子誕生の地に建てられたとされています。田んぼの中に建ち、とても趣のある寺です。

中宮寺

法隆寺に隣接する中宮寺の本堂には、国宝で本尊でもある弥勒菩薩像があります。この菩薩の微笑みは、古典的微笑とも言われ。アルカイックスマイルとして、スフィンクスや名画モナリザと並ぶ、「世界三微笑像」と言われています。

法起寺

この寺は唯一聖徳太子の没後に太子の意思によりできた寺です。世界遺産の一つとしても登録されています。地元では「ほっきじ」と呼ばれるのが普通でしたが、現在では元来の呼び方の「ほうきじ」と読むのが多くなってきています。

葛木寺

葛木寺は、他の六つの寺と違い、現存しません。どこにあったのかも色々諸説はありますが、現状ではまだはっきりしたことは分かっていません。

聖徳太子ゆかりの寺

こうした七大寺と呼ばれる寺院の他にも、聖徳太子とゆかりのある寺は数多くあります。その中から何件かの寺院を紹介しましょう。

法輪寺

この寺は聖徳太子が建てた訳ではありませんが、その息子、山背大兄王が父である聖徳太子が病に伏せたときに、快復を祈願して建てたとされる寺です。斑鳩の里の北にあり、三井という土地の名前から、三井寺とも呼ばれています。この地名は、聖徳太子が飛鳥の里から井戸を三つ、この地に移したことがはじまりとされています。この中の一つの井戸は現存していて、国の史跡として指定されています。この他に、法林寺や法琳寺とも書き表されます。

叡福寺

叡福寺は聖徳太子が眠る場所として紹介しましたが、ここではその叡福寺について紹介しましょう。叡福寺は大阪府南河内郡太子町にあります。聖徳太子は、まだ生きているうちから、この地を自分の眠る場所として決めていました。太子がなくなったあと、推古が土地や建物を寄進して、墓所の世話人が住む堂を建立したのが叡福寺のはじまりとされています。叡福寺は、聖徳太子ゆかりの寺として大事にされ、平清盛は自分の息子、平重盛に堂塔の修繕をするように命じています。日本に仏教を広めようと尽力した聖徳太子が眠っている場所というのもあり、空海や親鸞、日蓮などがこの寺に一定期間こもって題目を唱えたといいます。1574年に一度焼失して当時の建物は残っていませんが、17世紀に入ってすぐ、豊臣秀頼が伽藍を再建しています。聖徳太子を祀る聖霊殿と多宝塔が国の重要文化財に指定されています。



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