聖徳太子
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聖徳太子・政治から仏教へ

飛鳥時代の政治家として有名な聖徳太子ですが、のちに仏教を広めることに力を注いでいきます。徐々に政治の場からも遠ざかっていくのですが、それはどうしてなのでしょうか。政治を行っていた飛鳥の地からも離れて行ったのはどうしてなのでしょうか。

政治家としての聖徳太子

聖徳太子は4年間、四国に湯治に行っていた期間があります。それまでは、蘇我馬子と聖徳太子とで政治を司っていて、太子は馬子の意見をよく聞き入れてもいました。ところが、四国から帰ってき太子は考え方がガラリと変わってしまっていました。仏教にのめり込んでいたこと、恵慈という高句麗の僧に影響を受け、新羅に反感を持つようになっていたのです。半新羅思想を持つ太子に、馬子は危機感を持ちます。あらゆる手を尽くして太子が新羅に攻め入ろうとするのを馬子は阻止しました。これにより、新羅征伐をあきらめた太子は、中央集権国家の確立に熱を入れるようになります。仏教の教えをもとにして十七条憲法を作り、冠位十二階を制定しました。このときに、「倭国」と呼ばれていた我が国を「日本(ひのもと)国」と改めたのです。

政治の場から離れたのは何故

政治に仏教思想を取り入れて、一生懸命だった太子が政治の場から離れたのは何故だったのでしょうか。太子と恵慈によって派遣された第2回遣隋使ですが、これにより随との関係が開けたのです。その後、随が高句麗を攻め入る形であらそいが起き、高句麗の攻防により打撃は最小限に抑えられました。結果的に随は内紛により滅んでしまい、「唐」の誕生へとつながります。これらのことは近隣の国にも知らされ、新羅対策で親密につきあいたかった随が滅んだとなると、馬子の慌てぶりは相当なものだったことでしょう。間違った政治の行い方の責任問題が馬子に降りかかろうとしていました。ところが、馬子はこの全ての責任問題を太子と恵慈にかぶせてしまったのです。馬子が決めた対中国政策であるのにも関わらずです。もちろん責任は馬子にあったはずです。この陰謀により、太子と恵慈は政治の場から引きずり下ろされ、文字通りの失脚となったのです。馬子は太子の新しい仕事として、帝記や国記を書物にまとめることを命じます。

仏教の道へ

聖徳太子は十七条憲法を作ったあと、斑鳩宮に移り住んで、少しずつ政治の場から離れていったことは日本書紀にも記述があります。「三経義疏」などの制作に没頭するようになります。政治から少しずつ離れることで、徐々に仏教に没頭するようになったのかもしれません。太子は大陸から仏教が入ってきたときに、それまでは神道が古くから信仰されていた日本で、仏教と神道の根本にあるものが同じものだと見抜いた太子は、仏教の導入を決めたのです。仏教は小乗仏教と大乗仏教とに分けられるのですが、大陸から渡り、日本に入ってきたのは大乗仏教でした。仏教の教えを取り入れた政治を目指した聖徳太子ですが、政治の場から離れたのをきっかけに、数々の寺院の建立を手がけることになります。太子の生きているときには、仏教の目に見えた普及はありませんでしたが、彼の意思を継ぐ遣隋使達が、太子に代わって日本に仏教の教えを広めていったのです。

仏教の師

太子の仏教の師は、高句麗の僧の恵慈という人物です。太子22歳の頃です。615年に恵慈が帰国するまでの間、随のことに関しても詳しく教えたと言われています。随は仏教を厚く保護しており、長安という地には寺院が数多くあり、仏教が盛んである。中央集権国家も確立されていて、役人の秩序として儒教が尊重されていることなども学びました。その頃の倭国は、有力な豪族が政治を思いのままにし、土地や山、海、民衆を自分らの所有物として扱い、民衆は飢えで苦しんでいました。この恵慈から聞いた話に、太子は心を動かされます。自分もそういう政治を目指そうと思ったきっかけにもなりました。



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