聖徳太子
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冠位十二階

聖徳太子が定めたとされる冠位十二階ですが、どんなものなのでしょうか。教科書でならったけど忘れてしまっている人も多いのでは? 冠位十二階とはどんなものなのか、ここを読んで思い出してみてください。

我が国初の階級制度

西暦603年12月、高句麗や百済での冠位制度を聖徳太子が参考にして作った、我が国初の冠位制度です。最初、中国で行っていたように、身分によって服装を変えようと試みましたが、それまでの豪族の身分制度を全て変えることは不可能でした。聖徳太子は、身分の上下に関わらず、能力のある者を役人に登用するという決まりを作ったのです。この冠位十二階の最終目的は、日本を中央集権国家にし、身分制度を確立することにありました。また、能力に合った、自由な人材を役人に登用していこうとするものです。

冠の色と地位

冠位十二階は「徳・仁・礼・信・義・智」の儒教の徳目で分けられたものです。紫・青・赤・黄・白・黒の冠の色に、それぞれ濃淡をつけて大・小とつけて区別しました。紫以外の色は、中国の「人間も社会も自然も、五つの元素である木・火・土・金・水の一定の循環法則に従って変わっていく」という五行説に基づいており、一番位の高い紫は、道教の尊いものを大切に扱うという色なのです。遣隋使として隋に派遣された小野妹子も、この制度で出世した一人です。聖徳太子が定めた冠の色は以下の通りです。


大徳

小徳

大仁

小仁

大礼

小礼

大信

小信

大義

小義

大智

小智


このように色と地位が取り決められましたが、日本全国、全ての豪族や官人達にこの冠位が与えられた訳ではありませんでした。畿内やその周りの豪族のみに限られ、大豪族である蘇我氏や皇族には冠位は与えられていませんでした。当時の大臣は、大徳に定められた紫とは、別の紫の冠を着けていたとされています。大臣であった蘇我馬子は、聖徳太子と共に、冠を伝授する立場だったのではないかと言われています。こうして定められた冠位十二階は、大化の改新を迎えて、その後、冠位が増えてたびたび改正されていきました。

冠位十二階の昇進

冠位十二階は、それまで豪族による血族主義の世襲制と違い、能力さえあれば役人になれるものでした。さらには、昇進が可能な制度でもあったのです。隋に派遣された小野妹子は大礼という位にいましたが、最終的には大徳の地位まで登り詰めました。その他にも、何人もの人物が大礼から大仁へ、大仁から小徳などへ昇進したと言われています。小野妹子のように、遣隋使としての役割を果たした後に、異例の大出世を果たした人物もいて、努力や成果次第では、どんどん昇進することができました。これは十七条憲法の第十一条に、優れた働きや成果をあげた者には、それなりの待遇をするとされているからです。

血族主義から能力主義へ

これまで、豪族が権力争いにより政治を担ってきていましたが、聖徳太子が目指していた政治は、十七条憲法でも取り上げますが、豪族によるものではなく、天皇が絶対権力を持って行う政治でした。そのため、豪族による世襲制の政治を行う血族主義ではなく、能力のあるものが政治を行う能力主義へと変えていこうと考えたのです。この制度は一代限りのもので、それまでは能力がなくても親が力を持った豪族であれば、それを代々受け継いできました。しかし冠位十二階は、その人物ためだけのものであり、たとえ子供でもその地位は譲れないものとなるのです。そうするためには、様々な取り決めを行わなければなりませんでした。それまでは、それぞれの豪族が作っていたバラバラのルールを統一し、日本全国の共通の取り決めやシステムとして組み立てていく必要がありました。そこで一番はじめに取り組んだのが、この冠位十二階だったのです。身分に関係なく、能力に応じて役人になれるこのシステムは、役人になってからの心得を定める必要が出てきたのです。これで定められたのが、後に出てくる十七条憲法なのです。



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