聖徳太子
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法隆寺

奈良県にある法隆寺は、修学旅行で訪れたことのある人も多いでしょう。聖徳太子が建てたとされていますが、現存しているものは再建したもので、厳密に言えば聖徳太子の建てたものではありません。

法隆寺の歴史

法隆寺は斑鳩寺とも呼ばれ、存在する木造の建築物としては世界最古のもので、1993年12月にはユネスコ世界文化遺産に指定されている寺です。法隆寺は推古と聖徳太子が、病に伏せる父、用明のために薬師像を祀り、607年に建立したと言われています。伽藍の並びは、金堂と塔が南北に一直線に並んでいる四天王寺と同じ並びでした。法隆寺が建てられてから64年後、落雷により焼失されたと日本書紀の記述にあります。現在ある法隆寺は672年から689年の間に再建されたのが、現在ある西院伽藍です。金堂が建てられ、五重塔と中門が711年に出来上がりました。平安時代の末期までには、鐘楼や経蔵、講堂、僧坊、西円堂、食道などが建てられ、西院の形が出来上がりました。その後も、慶長、元禄、昭和と3回の大修理が行われています。聖徳太子を偲んで、法隆寺の斑鳩宮跡には上宮王院夢殿が739年に建てられ、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて、東院と呼ばれて太子信仰をする人々の集まる場所となりました。

五重塔

法隆寺に使われている建材は全て檜です。再建されてから1300年以上もの月日が流れていますが、この五重塔は倒れることなくしっかりとそびえ立っています。塔の先端まで32.56mもの高さがあり、芯柱と呼ばれる1本の柱が土台から先端まで通っています。一番下の内殿には、奈良時代に作られた涅槃像の塑像群が据え祀られ、舎利孔には舎利容器が収められています。

法隆寺の七不思議

法隆寺には多くの謎や不思議なことがあると言われています。中には教訓として語り継がれてきたものもあるようです。

伽藍に蜘蛛が巣をはらない、鳥も伽藍の堂塔にフンをかけない

聖徳太子が建てたこの建物を大切にしようとする教訓だと考えられます。

雨が降っても地面に雨だれの穴があかない

実際はいくつもできています。法隆寺の地盤はしっかりしているということを言っているのでしょう。

南大門にある石段の下には「鯛石」と呼ばれる巨大な石がある

魚の形をした石があります。

三つの伏蔵がある

三ヵ所に伏蔵と呼ばれる宝蔵があり、将来法隆寺を修造することがあれば、中の財宝を使うとする伝説です。

因可池に住む蛙は片目がない

この池は斑鳩宮のあったあたりで、太子が学問中に蛙の鳴き声がうるさいので、筆で静かにしろと片目を突いてしまったところ、この池の蛙全てが片目になったという伝説です。

五重塔の九輪に大鎌が4本ある

頂上にある4本の鎌の存在は謎です。雷よけとする説や、鎌が上向きか下向きかで、その年の豊作を占ったとも言われています。

夢殿の礼盤のうらが汗をかく

礼盤とは僧が座る座のことです。夢殿では救世観音像の前にあります。毎年2月11日に、この礼盤を外に出して太陽の光に当てると、なぜか水気を帯びてきます。この水分の量で豊作を占ったとされています。【夢殿のお水取り】と呼ばれています。どうしてこのように水分を帯びるのかはわかりません。

聖徳太子怨霊伝説

焼失した法隆寺を再建したのは藤原氏ですが、この怨霊伝説とどういう関係があるのでしょうか。様々な説がありますが、これほどまでに藤原鎌足が法隆寺再建に力を注いだのには訳があります。鎌足は、自分が政治を動かすためには蘇我氏が邪魔だと考えました。そこで、聖徳太子の息子である山背大兄の命を蘇我氏にとらせて、太子一族を滅ぼさせるということをしました。次ぎに、太子一族を根絶やしにした蘇我入鹿に責任を押しつけて中大兄皇子を利用し、大化の改新を成功させたのです。しかし、藤原不比等からの4兄弟が命を落としたのは、聖徳太子の怨霊、祟りによるものだと考えた藤原氏が、恐れおののき、法隆寺の再建に力を入れ、太子の写し身とも言われる救世観音の頭に怨霊封じのために、杭を打ち込んだとするものです。果たして事実はそうなのでしょうか。山背大兄の怨霊ではなく、なぜ聖徳太子なのでしょうか。藤原氏がなんらかの怨霊を恐れていたのは確かかもしれません。それは、自分の陰謀の為に命を落とすことになった、蘇我入鹿の怨霊を恐れていたのかもしれません。この説が正しければ、法隆寺は怨霊封じの寺ということになってしまいます。



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