聖徳太子
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四天王寺

四天王寺は大阪府の天王寺区にある寺で、金光明四天王大護国寺(こうこうみょうしてんのうだいごこくのてら)とも呼ばれています。聖徳太子が建てた七大寺の一つで、我が国で最も古い寺になります。

四天王寺の歴史

四天王寺は蘇我馬子が建立した飛鳥寺とならんで、日本で最古の寺になります。西暦587年、蘇我氏と物部氏とのあらそいの中で、物部氏側が優勢になっていました。当時14歳であった聖徳太子は、ぬりでという木を使って四天王の像を彫り、「勝利することができたら、必ず四天王を祀る寺を建てる」と勝利祈願しました。結果、蘇我側の放った矢が守屋に命中し、物部氏を滅ぼすことになります。その6年後である西暦593年に、聖徳太子は摂津南波で四天王寺の建立に着手しました。聖徳太子が四天王寺を建立するにあたり、「四天王寺縁起」によると。「四箇院の制」をとったとされています。四箇院が指すものは、帰依渇抑、断悪修繕、速証無上、大菩提所のことです。聖徳太子の意図するものは、修行を行う敬田院、病の者に薬を出してあげる施薬院、病院のような施設の療病院、身よりのない者や現在でいう老人ホームのような施設の悲田院、この四つを基本として四天王寺を建てたようです。四天王寺の伽藍の配置は、南から、中門、五重塔、金堂、講堂と北に向かって一直線に並べられ、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれています。これらを回廊で囲んでいて、日本の建築様式としては、最も古いものになります。

何度も焼けた四天王寺

長い歴史の中で、四天王寺は何度か焼失しています。836年には雷により主立った伽藍が焼失しています。近世以降は1576年の石山本願寺攻めで焼失し、豊臣秀吉により再建されています。1614年には大阪冬の陣で焼失。江戸幕府の援助で再建されました。1801年には再度雷で焼失し、1812年に再建されています。近年までこのとき再建された伽藍が残っていましたが、1934年の嵐により五重塔と中門が崩れ、金堂もかなりの打撃を受けました。1939年に五重塔は再建されますが、1945年の大阪大くうしゅうで、主要伽藍と共に焼失しました。現在の四天王寺は1957〜1963年にかけて再建されたもので、鉄筋造りになっています。これほどまでに何度も焼失、再建を繰り返している寺は他にありません。

四天王寺の伽藍

四天王寺のはじまりは聖徳太子ですが、紹介した通り、何度も再建されています。再建されていても、歴史あるものが多く、重要文化財に指定されているものもたくさんあります。

主要伽藍

仁王門、五重塔、金堂、講堂からなっています。再建されていますが、飛鳥時代の高句麗や六朝の建築様式を意識して作られています。

五重塔

中心伽藍の一つにも入る五重塔ですが、現在あるものは八代目で1959年に建てられたものです。

聖霊院

太子殿とも呼ばれる伽藍で、一番東に位置していて、聖徳太子を祀っています。太子を祀る太子殿前殿と、太子殿奥殿があり、1979年に奥殿が完成しています。法隆寺の夢殿にも煮ていますが、形は円形になります。

六時堂

1623年に椎寺薬師堂を移建したもので、重要文化財に指定されています。堂の手前の石舞台も重要文化財に指定されていて、日本三舞台とされています。毎年4月22日の聖徳太子の法要のときには、終日雅楽が披露されています。

その他

五智光院と本坊方丈は1617年に、徳川秀忠によって再建されています。元三大師堂は江戸時代の初めに建立されています。石鳥居は西門の外にあり、1294年にそれまであった木造の鳥居を石造りのものに変えたものです。寺なのに鳥居があるのに違和感を覚えるかもしれませんが、神仏習合の時代の名残と言えましょう。この四つはいずれも国の重要文化財に指定されています。

聖徳太子怨霊伝説

焼失した法隆寺を再建したのは藤原氏ですが、この怨霊伝説とどういう関係があるのでしょうか。様々な説がありますが、これほどまでに藤原鎌足が法隆寺再建に力を注いだのには訳があります。鎌足は、自分が政治を動かすためには蘇我氏が邪魔だと考えました。そこで、聖徳太子の息子である山背大兄の命を蘇我氏にとらせて、太子一族を滅ぼさせるということをしました。次ぎに、太子一族を根絶やしにした蘇我入鹿に責任を押しつけて中大兄皇子を利用し、大化の改新を成功させたのです。しかし、藤原不比等からの4兄弟が命を落としたのは、聖徳太子の怨霊、祟りによるものだと考えた藤原氏が、恐れおののき、法隆寺の再建に力を入れ、太子の写し身とも言われる救世観音の頭に怨霊封じのために、杭を打ち込んだとするものです。果たして事実はそうなのでしょうか。山背大兄の怨霊ではなく、なぜ聖徳太子なのでしょうか。藤原氏がなんらかの怨霊を恐れていたのは確かかもしれません。それは、自分の陰謀の為に命を落とすことになった、蘇我入鹿の怨霊を恐れていたのかもしれません。この説が正しければ、法隆寺は怨霊封じの寺ということになってしまいます。

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