聖徳太子
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聖徳太子が生きた時代

聖徳太子が生きていた飛鳥時代、世は内乱の中にありました。飛鳥時代は飛鳥地方(奈良県)に都がありました。その飛鳥の地で、聖徳太子は様々なことをしたと言われています。この飛鳥の地で生きた太子の時代とはどのようなものだったのでしょうか。

時代背景

聖徳太子が生きた時代は、蘇我氏と物部氏とがあらそい、また、大陸の動乱により、日本もまた変革を余儀なくされる時代でもありました。6世紀の後半から7世紀に入った頃には、南北朝を統一した隋が中国で起こり、強く大きな統一中央集権国家ができあがり、中国の周辺国でもある日本も、天皇を軸とした統一国家を目指すようになっていきました。この動きを進んで推し進めていたのが聖徳太子だったのです。太子は、これまでの体勢も大事にしつつ、新しく有能な人材を抜擢して政治を行うことを目指しました。これが冠位十二階です。冠位十二階については、別の項で詳しく取り上げていきましょう。

聖徳太子との関連人物

聖徳太子と主な関連のあった人物について触れてみましょう。どんな人達と関わりを持ち、どんな出来事があったのでしょうか。

推古天皇

第30第天皇、敏達の皇后だった豊御食炊屋姫、後に第33代推古天皇として即位します。日本初の女帝でもありました。聖徳太子とは、叔母と甥の関係にあり、太子を摂政としていました。蘇我氏とも血縁関係にあり、馬子を政治の中心においていました。在位は592年から628年までの36年間にも及びます。お上の地位まで上がったのは、蘇我馬子によるものでした。

蘇我氏

島大臣との別名を持ち、敏達元年に大臣を命じられてから、生涯政治の場で活躍しました。飛鳥にある大野丘に塔を建て、崇仏を推し進めてきた人物です。これにより、廃仏派である物部守屋との対立が激しくなり、蘇我氏の血を引く聖徳太子もまた、この混乱の渦に巻き込まれていきます。太子が四天王に祈ることにより、勝利をおさめた蘇我氏は自分の血縁でもある豊御食炊屋姫を頂点にたてて、摂政として太子を据えたのでした。飛鳥石舞台古墳は、蘇我氏の眠る場所とも言われています。

小野妹子

有名な「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す。恙無きや云々……」との聖徳太子の手紙を持って、第2回遣隋使として中国に派遣されたのが小野妹子です。高句麗と隋は、たたかいの最中でしたので、その手紙を読んで、大変憤慨したと伝えられています。手紙の返事は、小野妹子が百済で紛失したとされていますが、返事の内容が、大変怒っているものだったため、妹子が隠してしまったとも言われています。そのため、一時は流刑にあいましたが、恩赦で後に大徳に昇進しています。小野妹子はこの名前のため、女性と勘違いされることもありますが、れっきとした男性です。

蘇我氏と物部氏のあらそい

歴史上有名な仲の悪さの両者ですが、一体なにが原因で対立していたのでしょうか。蘇我馬子と物部守屋の父、稲目と尾輿の時代から両家の仲は悪かったようです。仏教をすすめようとする蘇我家と、神を崇める物部家とのあらそいになります。稲目が仏像をお上から賜り、熱心に拝む日々でした。尾輿は寺派ではなく神社派でしたので、猛反対をします。ちょうどそのころ、流行やまいが蔓延していて、それは国の神の怒りであるとして、寺を焼き払い、仏像は堀江に投げ捨ててしまったのです。これで両家の間には、消すに消せない火花が起こり、あらそいにも加速がつきました。父の意思を重んじる馬子と守屋もまた、あらそっていたのです。最初は物部側が優勢でした。このときの太子は、四天王に勝利を祈り、これにより蘇我氏の士気が上がって勝利へと導きました。こうして物部氏が滅んでいきました。

聖徳太子が食べた料理

この時代に食べられていたものは、「蘇」と呼ばれるチーズのようなものです。お米は古代米と呼ばれるものでした。聖徳太子が食べたとする正確な資料はありませんが、飛鳥時代の王族が食べていたものときっと同じようなものだったのでしょう。

生乳を煮詰めて作る「蘇」と呼ばれるものは、高貴な人々しか口にできない、高価なものであったと考えられます。

古代米

古代米とは、野生の稲の特徴を持っている米で、玄米の色が有色の物が多く、赤や黒、緑などの色がついています。生命力の極めて強い米になります。

飛鳥鍋

飛鳥鍋は牛乳がベースになっている鍋で、唐からきた僧が寒さしのぎに、山羊の乳で鍋を作ったのが始まりとされています。もしかしたら聖徳太子もこの鍋を食べていたのかもしれません。

飛鳥時代の食事の回数

飛鳥時代の位の高い人の食事の回数は、1日2食でした。夜遅くまで働くことの多い下級の役人などには、間食も出されたそうです。今に伝わる1日3食は、庶民の間から伝わって広まったものです。



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