聖徳太子
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仏教と国家の形成

仏教は百済から我が国、倭国に伝えられたものですが、国家にどのような影響を与えたのでしょうか。少なくとも、蘇我氏と物部氏とのあらそいの勝者が逆だったとしたら……今の日本の政治も全く違うものだったかもしれません。

仏教と国家

百済から伝えられた仏教ですが、これには経緯があります。大和朝廷が他国とあらそっていた百済に対して、その援助をする見返りに、新しい文化を差し出すという外交取引だったのです。仏教が日本に入ってきたことによりあらそいも起きたのですが、聖徳太子の働きによって、仏教国家へと変わっていくのです。国家の管理下で、仏教は展開されようとしていました。国家の中に仏教を取り入れて失敗した例もあれば成功した国もあります。聖徳太子が生きている頃には成し得なかった日本での仏教の普及は、意思を受け継ぐ者により全国に広まり、現在でもこうして日本人の生活の中に仏教は根付いたのです。外国から入ってきた仏教ですが、こうして私たちの生活に浸透するまでには、長い年月がかかっているのです。

国家と僧

聖徳太子は仏教の習得の意味も込めて、外交のために中国に遣隋使を派遣しました。その頃から奈良時代まで仏教が奨励されました。その思惑は仏教を利用しての国家鎮護です。このために政治の一部として仏教が取り入れられたのです。寺の建立や管理は公費でまかなわれ、僧には役人としての身分を与え、更には僧や寺を管理する法律までもが作られたのです。役人としての僧の仕事は、国の平和を祈ることが一番の目的となっていたのです。

仏教と政治の関係

推古時代には仏教は国が保護して民衆に広く信奉させるものとし、仏教の教えを基本とした十七条憲法と冠位十二階によって、政治の体制は急激に安定しました。蘇我馬子が冠位を受けていないのは、大王と共に冠位を授ける立場にいたからだと考えられます。太子と一緒に、中央集権国家を確立しようとする立場にあったことを意味するのでしょう。この仏教と政治の関係は、後の日本を大きく変えて行くことになります。

大乗仏教

大陸を渡って倭国に入ってきたのは、小乗仏教と大乗仏教がある中の、大乗仏教です。ユーラシア大陸の中央部や東部で信仰されてきた仏教で、苦しみの中にいる全ての者を救いたいという気持ちを持つことを前提としている仏教です。まさに、当時の倭国での有力豪族による政治で、民衆が飢えに苦しんでいる姿とこの大乗仏教の教えが重なったとも言えるでしょう。こうした教えを政治に取り入れようと、聖徳太子は考えたのです。

律令国家への第一歩

律令とは、儒教家と仏教家の考えを基本思想としたものです。儒教家は、道徳で民衆を収める政治を目指す考えと、仏教家は、国家権力の行使は議会の定めた法律に基づかなければいけないという考えです。律令の「律」は刑罰に関する法令、「令」は律以外の法令にあたります。こうした思想を基にしたのが中央集権国家であり、聖徳太子が目指していたものなのです。律令国家は、誰にも平等に田畑を作る土地を支給し、その代わり、税金や労役なども一律に平等に課せるようになりました。西暦701年に大宝律令が確立されることになります。聖徳太子が定めたとされている、冠位十二階はまさに、この誰もが平等に…に当てはまります。冠位十二階は身分に関係なく、有能な者であれば役人になれるというものでした。この太子が定めた制度は、律令国家への第一歩になったのです。そして、中央集権国家をも確立へと導いていきます。明治維新のときに明治政府が中心になって政治を行うようになって以来、現在の日本も永田町と霞ヶ関の政界による、中央集権国家になっています。



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