聖徳太子
TOP>>聖徳太子という人物

聖徳太子という人物

歴史の教科書やかつては高額紙幣の肖像画としても有名な聖徳太子ですが、どんな人物だったのでしょうか。歴史上の人物の中でも知名度の高い人物ですね。歴史上の人物というものは謎の多いものですが、聖徳太子も例に漏れずに謎が多いのです。

聖徳太子の人物像

聖徳太子は、教科書で習う歴史上の人物の上でも、最も知られている人物ではないでしょうか。かつては紙幣の肖像画でも使用されていて、顔も私たちの中ではお馴染みのものになっていました。聖徳太子といえば、冠位十二階を作ったり、十七条憲法を制定したり、数々のお寺を建てたり、遣隋使を派遣した人物として有名です。一度に何人もの人の話を聞き分けた人物とも言われています。聖徳太子を超能力者という人もいますが、実在しなかったとも言われており、中々謎の多い人物であることには間違いありません。これらのことについては、後ほど詳しく掘り下げていきましょう。

聖徳太子を知るにあたって

聖徳太子は、飛鳥時代に政治家として活躍したとされています。そして後には仏教を取り入れ、数々の寺を建立しました。聖徳太子のことを調べたことがある人ならお分かりでしょうが、極端に文献による資料が少ないのです。太子について、様々な説があるのは、資料として後世に残されていないのも原因の一つと考えられます。また、居住していたとされている斑鳩宮もすでになく、太子が建てたとされている法隆寺も、一度焼失して、後に再建されたものであることから、物証が乏しいことも理由の一つでしょう。

聖徳太子をとりまく伝説

「聖徳太子の生涯」の項でも触れますが、聖徳太子には様々な伝説があります。生涯の項で取り上げていないものをここで一つだけ紹介しましょう。

中国での伝説

これは日本ではなく、中国での聖徳太子の伝説ですが、唐の時代、すでにこの伝説は囁かれていました。中国の禅宗において、天台宗の開祖の師である南獄慧思の生まれ変わりではないかといわれていました。聖徳太子の政治はもとより、仏教にかける情熱が大陸まで伝わっていたからだと思われます。

何故頂点に立てなかったのか

聖徳太子は皇太子という立場にいながら、どうして頂点に立てなかったのでしょうか。蘇我氏と物部氏のあらそいは歴史上でも有名な話しです。蘇我氏の血を引く太子は、もちろん蘇我氏側についていました。物部氏を見事滅ぼして絶対的権力を手に入れたのは蘇我氏です。太子の父である第31代の用明なきあと、息子である太子が頂点に立つのが普通の考えです。ところが、第32代として違う人物を推した者がおりました。他ならぬ蘇我馬子です。聖徳太子には山背皇子という息子がおり、太子に頂点に立たれては用明の皇后でもある推古の息子、竹田皇子に頂点の順番が回ってこないためです。推古と蘇我の二人にはこわい者なしで、馬子も大臣のトップとして政界を思いのままにしていたのです。

謎に包まれた存在

調べれば調べるほど、聖徳太子という人物は謎に包まれていることが分かってきます。現存する資料の少なさもそうですが、厩戸皇子は存在したのだけれど、聖徳太子は存在しなかったという説まで近年になって出てきているくらいです。冒頭で紹介しましたが、超能力者だという人もいますし、これほど謎めいた人物は他にいないでしょう。後ほど詳しく触れていきますが、私たちが旧一万円札でよく知る肖像画も、太子ではないといわれています。では遣隋使や冠位十二階、十七条憲法を制定したのは誰なのかということになりますね。教科書で習ったことが少しずつ覆されています。何が本当で何が作り話なのでしょうか。誕生にまつわる伝説もそうですが、なんだかキリストと似たような人物だと思いませんか?



聖徳太子