聖徳太子
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広隆寺

聖徳太子が建立したとされる七大寺の一つの広隆寺は、国宝に指定されている弥勒菩薩の仏像があることでも知られている寺です。10月12日に毎年開かれる牛祭は、京都の三大奇祭としても知られている寺です。

広隆寺の歴史

広隆寺は京都市右京区太秦にある寺で、太秦寺、秦公寺(はたのきみでら)、蜂岡寺とも呼ばれています。建立当時は違う場所にあったとされ、平安京遷都前後に今の場所に移された説が強くなっています。建てられた当初の本尊弥勒菩薩でしたが、現在地に移った頃から薬師如来が本尊となっています。日本書紀に、この広隆寺建立当初の記述はありますが、818年に古記録を焼失してしまっていることもあり、建設当初の歴史はあまりはっきりしていません。定説では、聖徳太子が所蔵していた尊い仏像を拝み奉る者がいるかどうかと多くの臣下らに問いかけたところ、秦河勝(はたのかわかつ)という者がこの仏像を聖徳太子から譲り受けて広隆寺を建てたと言われています。また、聖徳太子の供養のために建てられたとする説もありますが、蜂岡寺と呼ばれる広隆寺と「広隆寺」とが、後々に合併したので別々の説があるとされています。818年に焼失したのを皮切りに、何度か伽藍を失うことになり、建てられた当時の建物は何一つ残っていません。836年に広隆寺の住職になった空海の弟子の道昌が、焼けてしまった堂塔や仏像を復興させることに力を注ぎました。1150年にも全部を焼失させてしまいますが、短い期間で復興しています。

広隆寺もう一つの建立説

聖徳太子が広隆寺を作ることになったきっかけの説がもう一つあります。聖徳太子が秦河勝に自分が見た不思議な夢の話しをしました。その夢の内容を聞いた河勝は、「その場所は葛野という我々が住む所です」と答え、聖徳太子をその場所へと案内しました。太子が見た夢は、大きな枯れ木の下に、五百羅漢が集まって経を読んでいるものでした。案内された場所には枯れ木があり、そのまわりをたくさんの蜂が飛び回り、まるで夢で見た羅漢のようであったのです。その場所に楓野別宮と名付けた仮宮殿を作り、太子は河勝に蜂岡寺を建てるように命じました。

広隆寺の伽藍

広隆寺の伽藍には以下のものがあります。国宝や、重要文化財に指定されているものも数多くあります。

桜門

広隆寺正面の門で、1702年に建てられたと言われています。

講堂

重要文化財に指定されています。1165年に再建され、近世まで何度か修理がなされています。天井などには平安時代であろう名残が残っています。国宝の阿弥陀如来坐像と重要文化財の地蔵菩薩坐像、虚空菩薩坐像が安置されています。

上宮王院

広隆寺の本堂になります。宮殿風の建築様式で、本尊として聖徳太子立像が安置されています。聖徳太子33歳のときの像だとされています。

桂宮院本堂

国宝に指定されています。塀で囲まれているために、通常は見ることができませんし、非公開になっています。聖徳太子を祀る堂で八角の円堂です。純和風の作りで檜皮葺きになっています。一般への公開は、4、5、10、11月に行われ、日曜と祝日に外観のみとなっています。

広隆寺事件

広隆寺事件とはどんなものだったのでしょうか。広隆寺には国宝になっている弥勒菩薩があります。1960年8月18日、京都大学の学生が弥勒菩薩に触ってしまい、弥勒菩薩の右手の薬指を折ってしまったという事件です。「弥勒菩薩があまりにも美しかったので、ついつい触ってしまった」とも「あまりの美しさに思わず抱きついてしまった」とも言われていますが、実際のところは、「木目が出ていて埃もたまっていて期待はずれだった。本当に本物なのか? と感じた」「監視の者がいないので、いたずらで触った」と、後にこの学生は語ったそうです。折れた指は、断片を拾い集めて復元され、見ただけでは破損箇所がわからない程になっています。この学生は、文化財保護法違反として取り調べを受けましたが、起訴猶予処分となっています。



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